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私は現在26歳の大学院生、男です。
私は少年院に通っていました。

スレタイは通ってましたの方が良かったかもしれませんね。
今でも昨日の事のように思い出されます。

中学一年の頃、私は虐めにあいました。
初めて受けた屈辱に自分の弱さが大嫌いになりました。

小学生の頃、私は勉強も出来るほうでスポーツもかなり得意でした。
そのためか割りと友達も多く順風満帆といった感じの生活を送っていました。

その頃から理論物理に非常に関心を持っていたため将来は大学教授になるのが夢でした。
親にもよく話をしていました。すると親は、
「そんな勉強したいなら中学も受験したら?」
と言いました。私はあんまり考えもせず「受験」という言葉に惹かれて私立の受験を決意
してしまったのです。
小学6年の7月のことでした。

小学生最後の夏休み私は大手の進学塾に通いよく勉強しました。
そこの塾は皆優秀で同じ私立中学を目指す友達も多くいました。
7月から入塾したためなかなか話し相手が見つからず、休み時間は静かなものでした。
周りの話し声を遠くに聞きながら机の上でよく社会の年表をみて過ごしたものです。

学校の知り合いは一人もいません。
夏休みの或る日全国模擬テストが開催されました。

「努力の甲斐あってか塾内では3位という好成績をとることが出来ました。
塾では一気に有名になり、これを機に多くの友達も増えました。

母親はどちらかと言うと甘い人で昔から若干親馬鹿といった感じでしょうか、この時も
異様なまで私を褒めちぎるのです。私もとても嬉しく次も頑張ろうと思いました。
一方父親は寡黙な人で褒めることなんてありません。

翌日から塾では休み時間に友達と弁当を食べたり話したり出来るようになり塾でも学校でも
本当に楽しい日が続きました。

そして中学受験。倍率は7.8倍とかなり高かったのですが何とか合格出来たのです。
家ではお祝いもし、私はこれから始まる中学生活は希望で満ち溢れていました。

中学ではやはり塾と同じように知り合いは見当たりません。
小学校からエスカレーターであがってきた生徒が多く校区出身の生徒はあまりいません。
私のような校区出身者は静かに席に座っている人が多かったです。


でも私は皆とお喋りをしたりするのが大好きなので何回も自分から友達を作ろうと話しかけたりも
しました。でもそう上手くはいかず、約1ヶ月半そのような状態が続きました。
そして最初の中間テスト。
各教科の担当の先生は成績優秀者を上から数名挙げる人が多く私は理科と数学で名を挙げられ
ました。顔には出せませんが心の中では本当に万歳でした。
塾の時と同じようにこれでまた友達が出来るのではないか」
とも思いました。
その翌日からです。すべてが狂い始めたのは。

私はいつものように席に座ります。しかしいつもと何か違う。
机の中の教科書が一冊もありません。
そればかりかロッカーの中の体操服も。
それからというものやたら物が無くなっていきました。
小学時代は全てが上手くいき何も問題なく過ごしてきたのでまさか虐めなどとは思いもしませんでした。
しかしそんな私でも実際に暴力を受ければ気付きます。
最初のうちは頭をうしろからしばかれる程度でした。
段々度が増してきて背後から膝で背中を蹴られたりし呼吸が出来なくなる事もありました。
私は学校が嫌いになりました。


でも親はいつものように親馬鹿ぶりを見せるのでまさか虐めなんて事は言えません。
なるべく家では明るく振り舞うように努力しました。
一学期が終わりになる頃、私はとうとう虐められているグループ(10人ほど)に呼び出されました。
こうして対面して何かを話すのは初めてです。今度は何をされるのかと怖さ故に足がガクガクしました。


虐めグループ「これからお前はクラスで一番下の位になれ。」

私はそれを聞いた時、正直ホッとしました。これで済むのなら何てこと無いなと思ったからです。

   私    「うん、わかった。」
虐めグループ「あとこれを読め」

そう言って一枚の紙を手渡し去っていきました。
私は脱力感に見舞われその場に座ってしまい、手渡された紙に目を通しました。
私は目を疑いました。紙には次のような事が書かれてありました。

1・毎日必ず上納金を渡す。
2・サンドバックは抵抗してはならない。
3・誰の言うことにも「はい。」と返事をしろ。
4・タメ口を使うな。
5・弁当を食べてはいけない。
6・自分から話しかけてはいけない。
7・召使として精一杯努力しろ。
8・口外するな。
9・前を通るときは失礼しますと言え。
10・以上の事を守れなければ即処刑。

最後の「処刑」という言葉に私は恐怖を感じた


次の日から受ける虐めは強くなりました。
今まではどちらかと言うと無視や物を盗られるのが多かったんですがそれからは、
あからさまに殴られるようになりました。
朝教室に入ると髪を掴まれトイレで袋にされたり水をかけられたり鼻や口からよく
血を出したものです。顔は目立つからと言ってわき腹を殴られることが多く、何度も
地面に倒れ呼吸困難になりながら上から蹴りをくらいました。

夏休みに入り勉強合宿というのが始まりました。
そこは学校とは違い皆開放された感じで虐めも酷くなりました。


食堂のような所でも虐めを受けました。私のご飯は茶碗に半分の白飯だけです。
二日間で食べたご飯は約茶碗3杯程度。流石に空腹に耐え切れず食堂の係員さん
に頼んで残り物のご飯を頂きました。
当然合宿先で風呂に入れてくれません。私は雑用係を任され片付けや掃除をよくしました。
寝る時も床です。しかし硬い床でもゆっくり休めるので本当に落ち着ける貴重な時間でした。

二学期が始まってもいっこう酷くなりました。


或る日の弁当の時間のこと。
母親は毎日きちんと弁当を作ってくれているのですがいつものように食べさせてはくれません。
しかしその日はいつも以上でした。
弁当を机の上にひっくり返されその上に牛乳を撒かれ髪を掴まれ顔をその上に叩きつけられました。
しかし驚いたのはその後の事です。
一部始終見ていた担任が発した言葉です。
「おいOO(私の苗字)。ちゃんと雑巾で拭いとけよ。」


私は全てから見放されホントに絶望を感じました。
そしてこの頃からでしょうか、私の心の中に憎しみがこみ上げてきたのは。

教師とは全く何の力にはなってくれませんね。
別に助けを借りようなんて思いませんがこの人格を問いたくなります。
今までは虐めグループに対し恐怖の念しかありませんでしたが、段々仕返しという気持ちに変わって
いくのです。


二学期も終わりを迎え大分、虐めにも慣れてきました。
が私の怒りは決して風化することはありません。

そんな鬱憤たまったある日、いつものように私は痣が残るまで輪にされ暴行を受けていました。
そして虐めグループの副リーダーがある事を口走ったのです。

「こいつの弟もボコボコにしちゃおうか?えっ?」

私はこの一言で「こいつを殺らなければ弟がやられる。」と思いました。


しかし身体の大きい人ばかりのグループだったのでまさか正々堂々戦えるわけがありません。
その週の土曜、私は少し離れた街へでかけバタフライナイフとスタンガンを購入しました。
後から、何故思いとどまることが出来なかったか何度も自問しましたが、このときは弟を巻き添えにしようとした、あいつが憎くて仕方なく無我夢中でした。

二日後の月曜、朝っぱらから私はリンチに遭いました。(体育館の倉庫の中です)
約5~6分でしょうか、暴行され続け、私は今しかないと思いました。


ポケットに入れていたスタンガンで輪を作っている4人全員に反撃しました。
物凄い音とその場に倒れる虐めグループに戸惑いはしましたが中途半端にすると後が怖いので思うがままにしました。
3人は痙攣し、指や足先がピクピクしていたのを覚えています。しかしあと一人は上手く当たりませんでした。私は義務感とも言うべきか逃げ腰のその一人の首を目掛けて失神するまでスタンガンを当て続けました。
しかし本当の戦いはここからです。私は覚悟を決め体育館入り口にいるリーダーと副リーダーに制裁を加えようと思い、倉庫を出ました。しかし倉庫内の音は外にはなかなか漏れないようでターゲットの二人は、気づいていないようでした。


私はズボンのポケットに入れていたバタフライナイフを出し、まずリーダーに襲い掛かりました。
逃げられたらいけないと思い、太ももを切りつけました。
リーダーの叫び声が響き渡ります。と同時に登校してきた女子生徒の悲鳴も聞こえたような気がします。
人が集まる前にやらなければと(冷静でした)思い足を切りつけた後、胸板から腰にかけてナイフで
約50cmほどシャットやりました。血が滲み出てきてリーダーは喘いでいました。
とそのとき形相を変えた副リーダーが背後から肘鉄で背骨を攻撃してきたのです。
私は激しい痛みと意識が飛びそうになるのを耐えてカウンター気味に両手でしっかり持ったナイフで腹部を
思いっきり刺しました。ナイフが刺さったままそいつの口から血が出てきてその場に倒れました。
思っていたよりナイフは簡単に刺さりました。副リーダーは運良く冬服を着ていなかったからでしょう。
そのあともがく副リーダーの意識を飛ばすために1秒ほどスタンガンをあて私は倉庫へ逃げました。


3分ほどの出来事でした。倉庫へ戻った私は今までされた事と、弟を狙おうとした憎しみを倉庫に居る
虐めグループにぶつけ何度も何度も泣きながらのしかかって殴りつけました。

そして少しして私は誰かから口頭部を殴られました。体育教師でした。

その後はもうほとんど記憶はありません。
何日も何日も調書作成のためにしつこく質問されて私はもうその学校の生徒ではなくなり、鑑別所に入れられ幾多と精神分析をされ少年院に入れられました。


母親は倒れ精神科へ通院が必要となり半年起きに面会に来る父親はもうほとんど口を聞いてはくれません。

リーダーは全治1.5ヶ月で副リーダーは内臓からによる出血多量で意識不明の重体で一週間後に亡くなったそうです。

私は13歳にして人殺しになりました。

少年院の中で私は静かに暮らしていました。
プールの授業などは本当に楽しかったです。学校では顔を水の中に押し付けられ多くの水を飲まされ吐くこともありました。ここではそんな事はありません。


何人か友達も出来ました。しかし皆、決して自分の過去について話すことはありませんでした。
でもその友達は喧嘩をして何度も反省室に入れさせられていました。

(反省室とはほとんど光が入らず寝るスペースしかなく猫が出入りするような小さな小窓から時間が来れば
飯が出てくるだけ、というまさに静寂と孤独の空間でした。一週間居れさせられます。)

一年半が経ち私は外の世界に出ることが出来ました。
私は人殺しという荷を背負ってこれ以上親族に迷惑をかけないよう独りで上京し遅れながら高校へ進学しました。


父に学費を払っていただいたがやはり生活できないため朝昼は仕事、夜は学校という生活を続けました。

しかし、定時制の授業だけあってなかなか大学に合格できるだけの授業はしてくれません。
私は独学ながら頑張って勉強しました。

高校3年になろうかと言う頃、夜学校から帰りポストを覗くと珍しく手紙が一通入っていました。
父親からの手紙でした。


「いきなりですまない。
嫌がらずに最後まで読んでくれ。

昔から勉強もよく出来て何も習わさずにいたがスポーツも優秀でそんな息子を俺は何よりも誇りにしていた。俺はお前を叱った記憶はほとんどいない。それも信用をしていたためだ。
言わずもがな。お前は物分りが良かったから敢えて俺は何も言う必要はなかった。
母さんはあの日勉強を頑張るお前のためにと年末旅行を計画していた。
しかし連行されたお前の話を聞いた母さんは倒れ入院した。
もう何日も寝込んでやっとまともに話が出来るようになったのだが精神がいかれてしまい今度は精神病院へ行った。
この時、俺は正直お前が憎かった。我が子ながら俺の愛する母さんにこんな目を遭わせたお前が憎かった。


しかし警察の調査によって段々俺にも報告が来るようになった。
俺はそれを聞いたとき涙が止まらなかった。
もし俺がお前だとしても、やはり家族にそんなかっこ悪いとこ見せられないだろうからいえなかったと思う。
そんなお前に気づいてやれない俺には父親の資格はない。そんな事は今更という感じだが、何度も何度も面会のときに謝ろうとしたんだが、情けない俺は何も言えずにただただお前の話を聴くだけしかできなかった。面会が終わり部屋を出ると俺は崩れ落ち餓鬼のように泣いた。
地面に拳をぶつけ悔しさと辛さで居た堪れない気持ちでいっぱいだった。
自分の息子をこんな形でしか気持ちを伝えられない俺は本当に駄目な親だと思っている。
しかし、俺は今お前に会う勇気はない。俺は、かいまお前を憎みさえした。
見す見す息子が暴行受けているのを見逃す親だ。お前も会いたくはなかろう。


すまなかった。
金銭面だけしか援助してやれないが俺を許してくれ。
お前ときちんと会話したのはもう4年以上も前だ。
これだけ愛する我が子なのに会うことが出来ないのは本当につらい。
ひょっとしたらもう一生話すことが出来ないかもしれない。
しかし俺はお前を世界で一番の自慢の息子だと誇りを持って言える。
どんな事があっても自慢の息子だ。

雑筆で長くなってすまんかった。じゃぁ健康に気をつけて頑張ってくれな。」
父親の手紙は涙で所々ボールペンの字で滲んでいました。
私もその手紙を読みながら夜通し泣き続けました。
今までで一番父親を側に感じることが出来た瞬間かもしれません。
何度も何度も私はこんな息子を愛してくれている父親にお礼を言いました。


それから二年が経ち一浪し旧帝国大学に何とか合格することが出来ました。

大学では割りと自由に行動でき、充実していました。
家庭教師をしながらボロアパートで友達と同居していました。
そんなある日、私はポロッと前科があることを友達に口外しました。
あまり隠しておきたくはなかったんですが無意識の内に喋ってしまい私も同居している友人も一瞬、戸惑いはしましたが、そのまま会話は続き内心ホッとしていました。

翌日は日曜で特に用事も無く私はここぞとばかりに昼近くまで眠っていました。
少し寝すぎたと思いながらふと目をサマストいつもは狭いと感じていたアパートの一室が妙に広いのです。


辺りを見回すと一枚の紙切れと一か月分の家賃が置かれてありました。同居している友人からでした。

私の前科のことは触れていませんでしたが、明らかにそのことで出て行ったのでしょう。
一人の大切な友人を失いはしたのですが私はそれでいいと思います。
このように自分に対してしっかり気持ちを伝えてくれる友達が居たことは嬉しかったです。

それから半年が経った冬の日、故郷の病院から電話がありました。
私は新幹線に乗って雪の降る中急いで帰省しました。

もう病院へ着いたときは集中治療室で面会謝絶でした。脳・心臓疾患だそうです。


数日後、父は過労死で他界しました。結局手紙の通り父との会話は小学6年生の時が最後でした。

通夜、葬儀は速やかに行われました。
葬儀が終わりようやく一段落し、弟とゆっくり話す機会が出来たのです。
本当に久しぶりで色々謝らなければならない事もありこれからの事も話し合おうと思い声をかけようとした時、弟から、

「もう縁を切ってくれ。あと3ヵ月後結婚をするんだが呼ぶつもりはない。」

と言われました。私はこの一言でこの世の唯一の家族を失ったのでした。


仕方ないことかもしれません。犯罪者が同じ家族に居ればどれだけの迷惑がかかるかしれません。
弟のためとはいえ人を殺した事実は変わらないので私は素直に弟に従いました。
「迷惑をかけて申し訳なかった」
と言い、私はその場を去りました。
もう親戚も私に関わることありませんでした。

しばらく父の遺産と家庭教師のアルバイトと夜中の土方仕事で学費を払っていたのですが、流石に将来の不安もあり故郷の実家にかかる固定資産税も馬鹿にならないので親不孝と思いつつ取り壊すことに決めました。


久しぶりに実家に戻るとポストの中には「死ね」「犯罪者」「魔物一族」などの書かれた紙で溢れていました。
私にはいつ何処でも犯罪者というものを回帰させてくれるものがあります。

部屋に入るとひんやりした空気が私の肌を刺激しました。
昔、私が生活していた空間を目の当たりにしながら家族の笑い声が耳の中でこだまします。
昭和の頃から使われていた円い円卓は変わらず堂々と居間に座っています。

全て私が家族と過ごした最後の日と変わっていませんでした。

私は思わず泣き崩れました。
あの幸せな日々は一体何処へ行ってしまったのだろうか。
もう一度だけこの円卓で家族と夕飯を囲みたい。
幸せだった小学生の頃・・・。
後悔の念が込み上げてきてやっと離れていった家族を実感してきました。
独りだけどやっていけるなんて強がっているふりをしていましたが、私は今でも家族が好きだ。

私のせいで母は精神が滅入ってしまい衰弱死。
私のせいで父に心配をかけ無理をして過労死。
そして犯罪者の弟とレッテル張られ楽しい生活を失った弟。

みんな私の責任です。私は自分の大切な物を自分の手によって失ったのです。


私は決して戻らない家族と離れることが嫌で仕方ありませんでした。
その家族と語りつくせないほどの多くの思い出が詰まるこの家が恋しくて2、3日此処で生活していました。

しかし自業自得。私は家族と気持ちの上でも別れる決意をしました。
もうお別れです。生前全くお礼を言うことが出来なかった父に深くお礼を言い、私の事を本当に大事にしてくれて可愛がってくれた母に感謝の気持ちをこめたお礼をし、何も兄らしい事をしてやれず更に一生迷惑をかけてしまった弟にも謝罪をし、その家をあとにしました。

家は取り壊され、そこは草一本生えていない空き地と化しました。もう何も残ってはいません。


今、私には家族も親戚もいない。友達もいない。恋人もいない。
あるのは履歴書に残る前科と未だ消えることのない、いや一生消えることのない人殺しという代名詞。
自分の手によって決断したあの若き頃の事件。それも永久に私に付き纏うだろう。

私は中学生にして人を殺した。

院(大学院)の研究室でそれを知る者は私以外にはいない。
知る必要もない。私は一生独りで生きていくからだ。
家族の幸せと同級生の人生を破壊した私に命があるだけまだ神に感謝すべきである。
何も贅沢は言わない。勿論結婚などはしない。

私は凶悪犯罪者であり殺人者だ。

私は本来なら世のため弟のため遺族のため死ぬべきなのかもしれない。
自分でも誰のために生きているのか解からない。

もし後世があるのなら、私は家族の温かみを一生の宝物にするつもりだ。
もう家族の笑顔を失いたくはない。

私はまだ未熟でこんな形でしか虐めを止める術を知りませんでした。
しかし確実に虐めは無くなりますが、一生を変えてしまいます。
家族というのは身近にいると何でもない存在ではありますが、私は、
ある日を境に家族を失いました。
家族のいない、誰からも相手にされない孤独がどれほど辛いか解って
頂きたかったです。

- てんこもり。 【少年犯罪】私は少年院に行ってました。 (via nobody-nogroup) (via iyoupapa) (via oharico) (via x-117) (via fishandmush) (via precall) (via 908908) (via skaholic) (via brccolsy) (via petapeta) (via newroutine) (via gkojax) (via kml) (via voqn) (via shukujitsu)
2010-08-11 (via gkojay)

昔から電通の手法は 「体育会系すぎる」 と言われており、万事が強引だった。これが80年代のバブル景気の時はイケイケで許されていたが、景気が落ち込むに連れて電通の体育会系ゴリ押し方式は嫌 悪されるようになり、今では企業から 「何とか電通さんを抜かせませんか?」 と言われるまでに成り下がった。

私にとって身近な話で言うと、冒険家・植村直己(故人) さんの奥さんの実家がお隣さんで、商店街仲間として付き合いがあったのだが、その植村さんを追い込んだのは電通だと言われている。 「金は我々が作りますからやりましょうやりましょう!」 と、より難しい冒険をしろと持ちかけ、最終的に真冬のマッキンリーなんて無謀な挑戦で行方不明になってしまったのだ。(遺体は未だに発見されていない)

電通は金になると踏んだら人を持ち上げるだけ持ち上げて、その気にさせて、逃げ場をなくす。どれだけ人が死のうと構わない。死んだら死んだで話題になるか らなおよしと考える。それが 「電通方式」 である。現に植村さんの時も、電通は早々と西田敏行主演で映画を作ってくださった。きっと電通が 「世界のウエムラ」 に投資しただけの金は取り返せただろう。おめでとう。よかったね。

- C.I.L(Charismatic Itabashi Lover) - フジテレビ韓流人気捏造問題は、大手広告屋の劣化が原因 (via kogumarecord)
2011-08-07 (via gkojax-text)

Taken with Instagram at 神戸港

Taken with Instagram at 神戸港

さらにすばらしいのは、ストアの店員に話を聞いてみたところ、自分が本当にアップルの従業員として働いていると信じていたという点。

- 店舗まるごと偽物の「偽アップルストア」、中国に出現 (via k32ru)

彼女が死んだと聞いて店長は目が開かなくなるぐらい泣いたこととか
私に電話をしてきた子が旅行の荷造りが出来ない位放心してしまったこととか
そんなことを知らないまま彼女は死んだ。
死んだ理由は誰も知らない。
取りたてて不幸な要素はない子だった。少なくとも私達の知ってるRちゃんは親御さんとも本当に仲が良くて
親御さんが上京した際、店に遊びに来たりするくらいで
「パパとママが仲がいいから私も早く結婚したい」
って前に言ってた。 色んなタイミングが重なってとてつもなく寂しくなってしまったのだろうと私はおもっているけれど
そんなのももう意味がない。
ただ彼女は死んだ。 電話の後以来初めて電話をしてきた子が家に遊びにきてどうでもいい話をした後、Rちゃんの話をした。
Rちゃんより一つ上の彼女はRちゃんのことがとても好きだった。
「あの子が私の年になることはこの先ないんだなっておもうと何だかすごく不思議なんです」
そう漏らした言葉は部屋の中で浮かんでしばらく漂っていた。

- 盗んだバナナで走り出す (via twominutewarning)

以前に森博嗣の小説で見かけたこと。

 欧米の集団の繋がりはjoinだが、日本の集団は「俺も混ぜてくれ」という言葉通り、mixなのだと言うこと。

 これはとても印象に残っている。(出典となる小説は失念)

 確かに欧米はjoinによって繋がっていくリンクリストみたいな感じがして、そのjoinの連鎖が数多く発生していて、最終的には複雑に絡み合ったチェーンみたいな気がしている。

 これは、直接その集団に触れた訳ではないので思いこみも入っているだろうけれど、Webサイトにおける繋がりも欧米のコミュニティも、それらの人々が書く書籍にもそうした色が濃く現れているように感じる。チェーンの中をけたたましくエネルギが行き交う感じがして仕方がない。

 そして、やっぱり日本はmixであって集団に溶けこむ事で個を失っていくというか、mixiのように繋がっていても集団の中で個は打ち消されていくような感じをうける。

 自分が自分であることは許されないというか、人格も性癖も特徴も個性も抑圧されて、ただひたすらに集団の構成要素であることを求められているような気がする。(例えばmixiにおける暗黙的な儀礼などがそれ)

 要するに日本において集団に溶けこめない人たちというのは、このmixにおける打ち消しに常に反発を覚えるのではないのかなぁ、と感じたということ。

 組織なんてものはその最たるもので、出来るだけ個を特出させないような仕組みなってしまっている。卓越した技能があっても、組織に適さないということで放逐される人もいるし、放逐されないまでも槍玉に挙げられるのがしばしばだ。

- mix or join(集団に溶けこめない人たち) - 神様なんて信じない僕らのために (via pinto, petapeta) (via twominutewarning) (via uessai-text) (via yaz1966)

戦時、日本軍優勢の戦況を報じる新聞の見出しで使われた「乱射乱撃雨霰」を捩(もじ)った言葉。

- 感謝感激雨あられとは - はてなキーワード (via suzukishika)

spacettf:

Centaurus A Ultra Deep Field by strongmanmike2002 on Flickr.Via Flickr:
Date Taken: May 2008
Location: “Wiruna” - dark sky site of the Astronomical Society of New South Wales.
Telescope: Astrophysics Starfire 152mm EDF F7.5 APO
This image may well be the deepest colour image ever displayed of the full extent of Centaurus A and its immediate surrounds. The image reveals the full visual dynamic range of this incredible and unusual southern galaxy, from its intense bright core bisected by an intricate and detailed dust lane right out to the very faintest extremities of the enormous galactic halo shining feebly at a tiny fraction of the natural sky background. The image indicates that the main circular galaxy halo extends out some 70 000 light years from the galaxy core while faint outer extensions perpendicular to the dust lane in both directions, take the visible extent of the galaxy out to an apparent 150 000 light years from the core or a diameter of 300 000 light years that covers some 84’ X 45’ of our night sky. Subtle mottled bright and dark patches within the huge galactic halo are hallmarks of a recently discovered complex system of stellar “shells” caused by an ancient collision with another galaxy. Showing up all over the field and looking like a patchy milky substance, is a layer of extremely faint (less than 27mag/squ arc sec) intervening Milky Way Cirrus dust. This dust hovers above the plane of our own Milky Way Galaxy and shines by the collective light of the stars in the Milky Way as a whole. A closer inspection also reveals many globular clusters in the halo of the galaxy as well as thousands of very distant galaxies of all shapes and sizes in the background.
Michael Sidonio 
m.sidonio@bigpond.com

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Centaurus A Ultra Deep Field by strongmanmike2002 on Flickr.

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Date Taken: May 2008
Location: “Wiruna” - dark sky site of the Astronomical Society of New South Wales.
Telescope: Astrophysics Starfire 152mm EDF F7.5 APO

This image may well be the deepest colour image ever displayed of the full extent of Centaurus A and its immediate surrounds. The image reveals the full visual dynamic range of this incredible and unusual southern galaxy, from its intense bright core bisected by an intricate and detailed dust lane right out to the very faintest extremities of the enormous galactic halo shining feebly at a tiny fraction of the natural sky background. The image indicates that the main circular galaxy halo extends out some 70 000 light years from the galaxy core while faint outer extensions perpendicular to the dust lane in both directions, take the visible extent of the galaxy out to an apparent 150 000 light years from the core or a diameter of 300 000 light years that covers some 84’ X 45’ of our night sky. Subtle mottled bright and dark patches within the huge galactic halo are hallmarks of a recently discovered complex system of stellar “shells” caused by an ancient collision with another galaxy. Showing up all over the field and looking like a patchy milky substance, is a layer of extremely faint (less than 27mag/squ arc sec) intervening Milky Way Cirrus dust. This dust hovers above the plane of our own Milky Way Galaxy and shines by the collective light of the stars in the Milky Way as a whole. A closer inspection also reveals many globular clusters in the halo of the galaxy as well as thousands of very distant galaxies of all shapes and sizes in the background.

Michael Sidonio
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西山審議官が女性と云々。 直ちに人体に影響は無い。

iPhone5、発売は9月に決定か!? 8メガピクセルカメラとA5プロセッサー搭載

http://www.gizmodo.jp/2011/06/iphone598a5.html